SEX AND DEATH
SEX AND DEATH –生物学の哲学への招待
キム・ステレルニー、ポール・E・グリフィス著 春秋社刊
この本は、偶然書店で見つけて衝動買いをしてしまった本である。僕はかなり前から環境問題に関心があって、その中で浮かんでは消える疑問に答えてくれるかもしれないという思いもあり、この本を手にとって見たのだ。ようやく読了したので、忘れないうちにここへ感想を記録しておくものである。
環境問題を考えるにあたっての僕の中での大きな疑問が、「環境保全、環境保護とはいったい何を目的としているのか?」である。昨今で話題の地球温暖化(すでに温暖化は死語になりつつあり、気候変動と言われることが多くなってきた)が叫ばれる前にエコロジーブームやゴミ・リサイクル問題、公害や絶滅危惧種保護政策などの多くの環境に関する問題が提起され、僕はその度にこの問題の、本当の問題はどこにあるのだろうと考え込んでしまっていた。
例えば絶滅危惧種の保護についてであるが、なぜ保護する必要があるのか?生物の多様性を維持するため。ではなぜ生物の多様性を維持する必要があるのか?生態系を守るため。では生態系を守るというのは、生物の多様性を維持し生物種をできるだけ多く残すことなのか?生態系を守るというのは、現在の環境を維持することなのか?それとも古き良き昔の「原風景」を再現することなのか?インターネットにもその答えらしきものはあります。
http://www.sizenken.biodic.go.jp/rdb/why02.html
抜粋すると、
地球上に生息、生育するさまざまな野生生物は、それぞれ異なった生息環境と結びついています。いろいろな生物が見られるということは、それだけいろいろな環境が存在するということです。
さまざまな生物を分類するとき、その一つひとつを「種(しゅ)」と呼びます。種は生物を分類するためのもっとも基本的な単位です。ヒトも含めて、地球上のさまざまな生物は、それぞれ独立した種であり、永い進化の結果として生み出されたものです。そしてそれらの種がさまざまな環境と結びついて、生態系をつくり出しています。こうした種や生態系などの多様さ(違ったものがいろいろあること)を生物多様性といいます。
生物多様性を生み出すそれぞれの種は、おのおの固有の役割をもち、ひとつの種は他の種とつながりを保ちながら生きています。私たちが暮らす環境の基盤は、こうした種と種の複雑で微妙なバランスのうえに成り立っています。
たった1種の絶滅が、それを含んでいた生態系全体を崩してしまうような例もあります。ある種が絶滅してしまえば、それを人間の手で蘇らせることはできません。人間の活動のせいで多くの種が地球上から失われるとしたら、それは地球の生物多様性を大きく損なうことになります。それは、人類の生存基盤を危うくするだけでなく、地球上の全生物に影響を与えることになるのです。
こうレッドブックのHPでは語られているけれども、本当だろうか。この主張は感覚では容易に受け入れられるけれども、理性でよくよく考えてみると「絶滅が生態系全体を崩す」だとか「人類生存の基盤を危うくする」など根拠が明確でない事柄も語られている。
Sex And Deathの中では以下のような問いが立てられている。
〇人間には本性があるのか?
〇真の利他行動はありうるのか?
〇人間は遺伝子によってプログラムされているのか?
〇生物学があれば、社会科学はいらない?
〇環境保全論者は何を保全すべきか?
僕は最後の問いに注目した。生物学哲学者はいったいどのようにこの問いに答えるのだろうか。
現在“エコロジー”には2つの意味がある。1つ目は生物科学としての「生態学」である。そして2つ目は「環境保護運動を通じて広く容認されるようになった価値」を意味する。環境保護運動の多くは生態学に依拠しているし、その議題は生態学者に多くの難問を突きつけている。例えば環境の変化が種に与える影響を予測する場合がその一例である。種や生態系に与える影響を予測するための一般理論を構築しようとしても、それは人類史を予測することと同じくらい困難なことかもしれない。特定の具体的事実が重要なのであって、一般原理はほとんど意味を成さないのである。
生態学と環境保護運動にとって重大な含意をもつ概念のひとつは種の本性とは何かという問題である。種の概念は三中信宏の「分類思考の世界」(講談社)でも取り上げられているが、分類学的にも、哲学的にも大きな課題なのである。例えば、大変な費用をかけて保全活動の対象となっている北米アカオオカミは単なる「変種」であって、科学的定義によればアカオオカミと異なる種とはみなされない。このことが問題視されるかどうかは、環境への関心の度合いや美的感覚に基づくだけであり、客観的な意味での生物多様性の保護を訴えたいなら種の適切な定義にもっと関心を払うべきだろう。これに関連する論争点として、生物多様性の尺度は何かという問題や、種間の近縁度が挙げられる。生物の種がただ多ければいいのか?僕とあなたという違う人間がいることが多様性維持に貢献しているか?そんな疑問も湧いてくる。
そしてさらに生物学哲学者はこう語る。
最近になって環境保全論者の多くは保全の対象を個々の種から生態系全体へとシフトチェンジしようとしている。種は単独では存続できず、より大きな全体の一部としてのみ生存できるという考え方を拠りどころとしている。生態群集は極めて複雑であり、それぞれの種が他の種と強く相互作用しているということは間違いない。しかしこうした群集を1つのシステムとして扱えるのかどうかを疑う者は多い。システムとは絶え間なく変化する状態ではなく、比較的安定した関係の集まりを示唆する。一般的なイメージでは生態システムとは豊かで多様性を持った群集であり、多少の摂動を受けても元の状態に戻る傾向を持つとされている。しかしこの考えは、純粋に観察の結果なのではなくて、希望的観測であるかもしれない。だから、人類が環境に与える変化はシステムを乱すという根拠は非常に曖昧であるといわざるを得ない。
生態系概念の主要な源泉は間違いなく「自然の調和」という古くからの考えである。しかし、「自然の調和」を科学的に正当化するのは容易いことではないのである。
このような生物学哲学者の意見を読み、僕はある意味納得し、ある意味では疑問を深めた。ただ、1つはっきりしたことは、“エコロジー”は学者であっても解決が容易ではない問題なのだということだ。
最後に1つ印象に残ったことばを書き留めておく。
理想的には、生物学はあらゆる形式の生命を包括すべきである。だが実際は、生物学は地球上の生命というたった1つの実例の研究に制限されてきた。生物学は1つの標本に基づいているので、生命がもつどの特徴が地球に固有であるのか、また、どのような特徴が一般的であり、あらゆる生命に共有されているのかは、知ることができないのである。
これらのことを考えるに当たって今までに読んだ本たち
ほんとうの環境問題 池田清彦+養老孟司 新潮社
正義で地球は救えない 池田清彦+養老孟司 新潮社
偽善エコロジー 武田邦彦 幻冬社
環境問題はなぜウソがまかり通るのか1・2 武田邦彦 洋泉社
分類思考の世界 三中信宏 講談社
沈黙の春 レイチェル・カーソン 新潮社
不都合な真実 アル・ゴア ランダムハウス講談社
これから読みたい本たち
「環境主義」は本当に正しいか? ヴァーツラフ・クラウツ 日経BP社
現代思想としての環境問題 佐藤統 中央公論社
さて、今日は1Q84 book3の発売日である。新宿の紀伊国屋書店に行き、朝イチで入手してきました。さっそく読んでいます。青豆は生きているだろうか。空気さなぎの全貌は明らかになるのか。牛河による章が追加されて物語を織り成すメンバーが3人になってるし!などなど、楽しみいっぱいです。
そういえば、book1,2の発売日も雨だった気がするなあ・・・
キム・ステレルニー、ポール・E・グリフィス著 春秋社刊
この本は、偶然書店で見つけて衝動買いをしてしまった本である。僕はかなり前から環境問題に関心があって、その中で浮かんでは消える疑問に答えてくれるかもしれないという思いもあり、この本を手にとって見たのだ。ようやく読了したので、忘れないうちにここへ感想を記録しておくものである。
環境問題を考えるにあたっての僕の中での大きな疑問が、「環境保全、環境保護とはいったい何を目的としているのか?」である。昨今で話題の地球温暖化(すでに温暖化は死語になりつつあり、気候変動と言われることが多くなってきた)が叫ばれる前にエコロジーブームやゴミ・リサイクル問題、公害や絶滅危惧種保護政策などの多くの環境に関する問題が提起され、僕はその度にこの問題の、本当の問題はどこにあるのだろうと考え込んでしまっていた。
例えば絶滅危惧種の保護についてであるが、なぜ保護する必要があるのか?生物の多様性を維持するため。ではなぜ生物の多様性を維持する必要があるのか?生態系を守るため。では生態系を守るというのは、生物の多様性を維持し生物種をできるだけ多く残すことなのか?生態系を守るというのは、現在の環境を維持することなのか?それとも古き良き昔の「原風景」を再現することなのか?インターネットにもその答えらしきものはあります。
http://www.sizenken.biodic.go.jp/rdb/why02.html
抜粋すると、
地球上に生息、生育するさまざまな野生生物は、それぞれ異なった生息環境と結びついています。いろいろな生物が見られるということは、それだけいろいろな環境が存在するということです。
さまざまな生物を分類するとき、その一つひとつを「種(しゅ)」と呼びます。種は生物を分類するためのもっとも基本的な単位です。ヒトも含めて、地球上のさまざまな生物は、それぞれ独立した種であり、永い進化の結果として生み出されたものです。そしてそれらの種がさまざまな環境と結びついて、生態系をつくり出しています。こうした種や生態系などの多様さ(違ったものがいろいろあること)を生物多様性といいます。
生物多様性を生み出すそれぞれの種は、おのおの固有の役割をもち、ひとつの種は他の種とつながりを保ちながら生きています。私たちが暮らす環境の基盤は、こうした種と種の複雑で微妙なバランスのうえに成り立っています。
たった1種の絶滅が、それを含んでいた生態系全体を崩してしまうような例もあります。ある種が絶滅してしまえば、それを人間の手で蘇らせることはできません。人間の活動のせいで多くの種が地球上から失われるとしたら、それは地球の生物多様性を大きく損なうことになります。それは、人類の生存基盤を危うくするだけでなく、地球上の全生物に影響を与えることになるのです。
こうレッドブックのHPでは語られているけれども、本当だろうか。この主張は感覚では容易に受け入れられるけれども、理性でよくよく考えてみると「絶滅が生態系全体を崩す」だとか「人類生存の基盤を危うくする」など根拠が明確でない事柄も語られている。
Sex And Deathの中では以下のような問いが立てられている。
〇人間には本性があるのか?
〇真の利他行動はありうるのか?
〇人間は遺伝子によってプログラムされているのか?
〇生物学があれば、社会科学はいらない?
〇環境保全論者は何を保全すべきか?
僕は最後の問いに注目した。生物学哲学者はいったいどのようにこの問いに答えるのだろうか。
現在“エコロジー”には2つの意味がある。1つ目は生物科学としての「生態学」である。そして2つ目は「環境保護運動を通じて広く容認されるようになった価値」を意味する。環境保護運動の多くは生態学に依拠しているし、その議題は生態学者に多くの難問を突きつけている。例えば環境の変化が種に与える影響を予測する場合がその一例である。種や生態系に与える影響を予測するための一般理論を構築しようとしても、それは人類史を予測することと同じくらい困難なことかもしれない。特定の具体的事実が重要なのであって、一般原理はほとんど意味を成さないのである。
生態学と環境保護運動にとって重大な含意をもつ概念のひとつは種の本性とは何かという問題である。種の概念は三中信宏の「分類思考の世界」(講談社)でも取り上げられているが、分類学的にも、哲学的にも大きな課題なのである。例えば、大変な費用をかけて保全活動の対象となっている北米アカオオカミは単なる「変種」であって、科学的定義によればアカオオカミと異なる種とはみなされない。このことが問題視されるかどうかは、環境への関心の度合いや美的感覚に基づくだけであり、客観的な意味での生物多様性の保護を訴えたいなら種の適切な定義にもっと関心を払うべきだろう。これに関連する論争点として、生物多様性の尺度は何かという問題や、種間の近縁度が挙げられる。生物の種がただ多ければいいのか?僕とあなたという違う人間がいることが多様性維持に貢献しているか?そんな疑問も湧いてくる。
そしてさらに生物学哲学者はこう語る。
最近になって環境保全論者の多くは保全の対象を個々の種から生態系全体へとシフトチェンジしようとしている。種は単独では存続できず、より大きな全体の一部としてのみ生存できるという考え方を拠りどころとしている。生態群集は極めて複雑であり、それぞれの種が他の種と強く相互作用しているということは間違いない。しかしこうした群集を1つのシステムとして扱えるのかどうかを疑う者は多い。システムとは絶え間なく変化する状態ではなく、比較的安定した関係の集まりを示唆する。一般的なイメージでは生態システムとは豊かで多様性を持った群集であり、多少の摂動を受けても元の状態に戻る傾向を持つとされている。しかしこの考えは、純粋に観察の結果なのではなくて、希望的観測であるかもしれない。だから、人類が環境に与える変化はシステムを乱すという根拠は非常に曖昧であるといわざるを得ない。
生態系概念の主要な源泉は間違いなく「自然の調和」という古くからの考えである。しかし、「自然の調和」を科学的に正当化するのは容易いことではないのである。
このような生物学哲学者の意見を読み、僕はある意味納得し、ある意味では疑問を深めた。ただ、1つはっきりしたことは、“エコロジー”は学者であっても解決が容易ではない問題なのだということだ。
最後に1つ印象に残ったことばを書き留めておく。
理想的には、生物学はあらゆる形式の生命を包括すべきである。だが実際は、生物学は地球上の生命というたった1つの実例の研究に制限されてきた。生物学は1つの標本に基づいているので、生命がもつどの特徴が地球に固有であるのか、また、どのような特徴が一般的であり、あらゆる生命に共有されているのかは、知ることができないのである。
これらのことを考えるに当たって今までに読んだ本たち
ほんとうの環境問題 池田清彦+養老孟司 新潮社
正義で地球は救えない 池田清彦+養老孟司 新潮社
偽善エコロジー 武田邦彦 幻冬社
環境問題はなぜウソがまかり通るのか1・2 武田邦彦 洋泉社
分類思考の世界 三中信宏 講談社
沈黙の春 レイチェル・カーソン 新潮社
不都合な真実 アル・ゴア ランダムハウス講談社
これから読みたい本たち
「環境主義」は本当に正しいか? ヴァーツラフ・クラウツ 日経BP社
現代思想としての環境問題 佐藤統 中央公論社
さて、今日は1Q84 book3の発売日である。新宿の紀伊国屋書店に行き、朝イチで入手してきました。さっそく読んでいます。青豆は生きているだろうか。空気さなぎの全貌は明らかになるのか。牛河による章が追加されて物語を織り成すメンバーが3人になってるし!などなど、楽しみいっぱいです。
そういえば、book1,2の発売日も雨だった気がするなあ・・・
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